昭和43年5月20日 朝の御理解 ●② 大坪かよこ
神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃというような、そういうおかげを頂いていくということは、一番理想的なおかげでございますが、なかなか難しい。
ね、難しいからというてこれは、お道の信心をさせて頂く以上、難しいからと、手を、手にかけないわけにはいけん。
やはりそこんところの信心を、お互いが目指さなければならん。
神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ、ということは、みんなが喜ぶということだと思うんですよね。
誰でも喜んでもらえれるという意味だと思うんですね。
それでいてこれはその、普通でいう八方美人的な生き方でもないのですね。
というて、自分の信心のペースを崩すということでもないのですね。
そこに中々デリケートなその難しさを感じますんですね。
あれは夏目漱石の言葉でしたかね、情に掉させば流される、知に掉させば、あ、情に掉させば流される、知に走ればかたくなる、とかくに世の中は住みにくいといういうわけなですねね。
ね、そのただ、情だけでもいけないし、というてその、ま、理知的な生き方とでもいうかね、という、でもいけん。
確かにその世の中は難しいように、そのここんところが、金光大神が教えておられるように、神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜び、みんなが喜び、そんならその情にも走らん、知にも走らん、ね、そのちょうどいいところがあろうごとあると、どうもそれは、あっちはどうも八方美人だからといったようなことになる。
そして自分のペースを崩さなければならないという感じ。
ね、確かに金光大神のその生き方というものはですね、たとえば、みんなが立ち行くようなおかげというのですからね。すべてが立ち行くおかげ、仇もなく敵もなからなければ味方もない。
ね、たとえば、金光教の信心が、政治なんかにタッチしないですね。というのもその、そういう金光大神のお取次の御建前というかね、建て前というのが、これがええ、これが悪いということじゃないのですよ。共産党の者もお参りしてくりゃ、おかげを頂きますすようにであり、社会党の者がお願いに来れば、社会党に、民主義の者が来れば、民主主義の者に、だからもう金光様ばっかりは、どっちでんよかごついうてから、というようなことにまでなりかねないのですからね。
それでいて共産党も立ち、社会党も立ち、民主主義の生き方も立つといったようなですね、ほんとにこの、そういう立ち行く、もう実にデリケートそのおかげが、そこからうまれてくるんですね。そこん所をです、私どもの生活の上にも、人間関係の上にです、にも、自分の信心の上にも、そういう生き方を表していけれるということ。
片寄らないわけですね。ほら、なかなか難しい、と私は感じるですね。
自分なほんとに親戚ん人からもかえって恨まれておる、といったようなこと。
ね、そりけんち、出すぎちゃならんと思うとりゃ、あっちもう知らん顔してある、というようになる。
ね、そういう意味で、たとえば久留米の初代の石橋先生なんかは、確かに素晴らしい、やはり、ま、大器であると、大きな器でおありになったという感じですね。
三代金光様をして、久留米の石橋先生は、出すぎもせず、引っこみせずもせず、あれが真の人じゃというふうに仰ったということです。
ですからその、真の人になるということなんですね。
真の信心をする者は、真の道を踏まなければならん、真の道を踏んで行く人は、真の人にならなければ、真の道は分からん。いわゆる真の信心、真の信心とこういうことを言われますが、そういう真の信心の、ということにいつも焦点を置いての生き方。片寄らない、ね。私はそういうふうなことを、今朝、朝のご祈念に、金光様のご信心はなかなか難しいな、そのへんのところが、ね、あちらも立ち行くように、こちらも立ち行くようにだからね。もうこちらだけが立ち行くようになら、まだ生き方があるね。ただ自分というものを犠牲にしてしもうて、あちらだけが立ち行くようにといやぁ、まだ話は分る。
ね、こちらも犠牲にするのでもない、なるのでもない、そこで自分も立ちあっちもたち。人も立ちゃ、自分も立ち、自他共に立ち行くというそのおかげ、ね。
●② そしてからお知らせを頂きますのにね、あの、赤玉ポートワインて言うのがありましょうが、ポートワインに、ね、・・・かけておるのじゃなかろうとおもったんですけれども、たとえばあのぶどう酒というのは、お酒を飲めない人にでも、勧められますね。
してま、一杯二杯ならおいしい。そしてほのぼのとして、あの酔いが回るわけですね。というて酒の好きなな人にゃ、にも進められるお酒なんです。
誰んでもまあ、向くというわけなんです。もう赤玉ポートワインのような生き方が、ところが、ちったきついと、焼酎んごとなったりですね、ちっと薄いと、いわば有り難きも何もない、ぶどうのごとなってしまう。ね、そのぶどうでもなからなければ、焼酎んごたふうでもない、ま、ところが、ぶどう酒のようなもんじゃなかろうかと思うのですね。酒精度数というかね、そういう酒精度数も適当にある。
それでいて、その甘みもあって、女、子供にも向くといったような、ね。そしたら次にそこを、ま、梅雨のうちなんかによくあるお天気がですね、こう低い雲が垂れこめたような、お天気でね、いまにも降り出しそうな感じのお天気の模様を頂くんです。
は、こういうような在り方にならなければならんのだなというふうに私感じたんですけれどね。
皆さんどういうふうにそこん所を感じられたろうか。
ね、信心させて頂く者の心の中には、いつも、有り難き勿体なきというものが、なからなきゃならん。
ね、どのような場合んでも、だれに接するでも、ね、いうなら神様の、神様に向かうのも、人に向かうのも同じでなからにゃいかん。でなかったら、神も喜び、氏子も喜び、自分自身の喜びにもならんのですから。
ね、いまにも降りそうなお天気の時に、みんながどういうふうな感じですかね。まあ、外出でもするというときは、傘は持って行ったらいいだろうか、持っていかんがいいだろうかと思うでしょう。ね、こしらえも、例えて言うならば、雨にぬれんで済むようにレインコートを着ていく、でなかったら、ま、あんまりよか着物も着て行かれない、というような心づくり、心工面というものがあるですわね。
お天気がよかりゃ、もう平気で出ていく、途中でにわか雨でも会うと、もう濡れなければならないのですけれど、もういまにも降りそうなお天気という時には、やはり、えーと、傘は持って行ったほうがいいだろうか、着物もこれじゃいかんな、荷物にならんなら、レインコートも一つ持って行こうかと、いうような、その心配りを致します。
ね、そういういつも心配りというものが、大事であるということであろうとこう私は思うた。
ね、同時に、そのいつもいわば、有り難き、勿体なき、恐れ多きという、有難いという心が、いつもお互いが持ち続けることに精進しなければならない。
ところがですね、それだけではこう、あまりにですね、なんかこう、なんと申しましょうか、妙な感じ、あの、なんかが一本抜けたような感じが致しますですわね。
桂先生のご教話の中にも、こんな御教えがありますね。
親に不幸して神に孝行し、ね、親にいわゆる孝行、神に不幸する、そして親に不幸しておる氏子があると仰る。
親に孝行xをして、神に不幸をする、そしてまた結局は、親に不幸しておるということ、いかにも親孝行のようであったけれども、神に不幸したんでは、親孝行にはならんという意味なんです。
次に、ね、親に不幸して、神に孝行し、後に親に孝行をしておる氏子がある、と、ね、この辺になってくると、やっぱりいよいよ難しいですね、今日の御理解、ね、ですから、そこに、その時は一時は、ね、合点がいってもらわなくても、これが本当だと思うことをやり貫かせて頂いて、ね、例えて言うならば、親が信心がない、子供が信心がある。あんたそげん合楽、合楽て言うて参らんでん、うちゃどげんするの、ね、そげん神様にばっかり、神様、神様ちゅうたち、うちゃ立たんよ、と、ま、親が言う。それもそうじゃ、親にこりをつましちゃならん、親に心配かけちゃならん、というて、なら親の言う通りにする。信心の方をおろそかにする。いかにも親の言うことを聞いたようであって、親孝行したようであるけれども、なら、結果においては、これは親不幸になるということです。
ね、神に孝行し、親に不幸をし、というのは、親に不幸をするというのは、たとえばここは、親の言うことを聞かなくても、これが本当だと確信することを、ね、信心を貫かせて頂いておるうちに、神様の御信用も頂き、力も頂き、おかげも受けて、そしてのちに親に孝行することができる。結局はこれが方が親孝行じゃとこう、ね、ですから、ここの辺をですね、親に孝行し、神に孝行をし、それを私はその、今日私が申しますような信心と間違えては大変なところになるのですよ。
ね、親が言うから、親にこりを積ましちゃならん、ね、親にも喜んでもらわんならん、神様はうちから拝みよりゃ、神様は知ってござるけんでん、そういう信心では、いけない。ね、だから、今日の御理解をそういうふうに頂くと、信心が非常に、その、なんと申しますかね、節度のないというか、信心の一つ筋金がゆるんでしまうという感じが致しますね。だからそのゆるんでおるのが、当たらずさわらずになったんじゃ、いや当たらずさわらずの信心じゃないというのです。
ね、神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜び、もう、これたとえば、商売人ということにいたしましょうか。ね、御教えを頂いて、たとえば良い品物を、どこよりも安く商うと致しましょうか、ね、確かに神様は喜んで下さるです。お客さんも確かによそのよりも品物もよい、値段も安いというて喜んでくださるです。
それでその店に信用が付かんはずがない。また買う時にはあそこに、そこに氏子も喜び、氏子の喜びというのは一番最後にもなる、感じが、ね、自分の信心を貫こうとすると、そこに場合には親に不幸をしなければならんといったようなことにもなるけれども、ま、しばらくここんところは、しばらく辛抱しとって下さい、とこう、親を心で合掌しながら、神様へ向けていかなければならんというところがある。
ね、そしてなるほどあれが神様、神様といって一生懸命になりよったが、こういう親孝行してくれるようにもなった、ということになってくる。そのとき初めて神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜びということになるのです。
だから、ここの過程のところをですね、私どもは間違えてはならないということです。
今、今だれにでも良いという、都合よういくというのは、これは八方美人的な考え方ですね。
そこでは信心の節度とでも言おうかね、なんか一本釘がゆるんどるか、抜けたといったような感じ、そういう信心じゃいけん、ね。
同時に、ね、人が喜ぶ、こうすりゃ人が喜ぶということをですね、あの、深く考えにゃいけないことがありますね。
たとえば、あの親切好きという人がありますね。そして、人が喜んでくれておると自分な思うておるわけです、ね、ですから、自分はま、満足なんです。いわゆる自己満足というわけ。自分なもういっぱい人にこうやって、親切をあげるわけですね。して自分はもう親切しておる、もう自分は信心になっておるんだと自己満足しておる。ところが親切にされた方は、迷惑を被っておるというような場合があるんです。
なら、そういう時にです、ね、今度はこうしてやると喜ばせるということは分かっておるけれども、ね、出すぎてから困られどんしちゃならんけんで、ちゅうちから、しないという生き方でもいけない。
ね、いわゆる情に掉させば流される、知に走れば硬くなるというのはこのことなんです。そこでだいたい自分で分るですわね。自分は冷たい方だ、自分は情に勝ってるんだと分る。親切好きな人なんか、情に勝ってる。ですから誰でも彼でも、それこそ自分を身を犠牲にすることなんか問題じゃない。してこう親切の安売りをするわけです。して、あっちはもう、ほんとに、ほんとに一生懸命親切でしござるけんで断るわけにもいかんばってんか、迷惑なもんじゃんの、ちゅうのがあるとですよ。ありますよ、合楽では特に多いです、そういう人が。
ね、・・?私がそげんとの親玉じゃったような感じがするんです、今まで。
もうこの頃はおかげ頂いてからですね、もう親切にするだけは、せんごたふうに一生懸命努めよる。それでもやっぱ、だからその、自分を知るということですね。
そして一生懸命努める、やっぱ努めなきゃいけません。
というて冷たいのじゃない。・・?ではっとそれに応じられるだけの体制、ね。
言われればそれにハッと応じられる、いわゆる親切というか、いいや私は、なんていうて、そのいう人が、じゃいかん。この辺のところをですね、あの信心にならして頂かんやいけんと思うんです。
過ぎたるは、過ぎたるは及ばざるが如し、という言葉がある。
ね、過ぎたことがもうかえって及ばざるが如くなったんではいけないし、初めからそんならもう知らん、構わんというような生き方では、またなおさらいけないし、ね、この辺のところが、その赤玉ポートワインでないですけれども、ちょうどいい、ね、誰でも頂けれる、飲めれるような状態、そういう時に、お天気の悪い時に、空模様を見るような心持で、ね、事に当っていくような慎重さというものが、信心させて頂く者の上にはいる。
その内容の中に、有難い勿体ないを絶やしちゃならん。
ね、そういう私は努力、そういう精進がですね、私どもは必要じゃなかろうかと思う。
ね、そこに私は、神も喜び、ね、金光大神も喜び氏子も喜びじゃと、ね、適当な奉仕をさせて頂いたときの、自分の心の中に頂くとこの喜び、そして確かに人の喜びが伝わってくるような感じ、そういう時に、神様が喜んで下さる、金光大神が喜んで下さる。
今日はちった、自分の親切の押し売りじゃったじゃなかろうか、なんていうようなときにはね、こりゃ神様は喜んで下さっていない、あの人も喜んで下さってない、もうあっちが一生懸命親切でさっしゃるもんだけん、断るわけにもいかん、といって悪くは思っていない。けれどもちいった相手が迷惑しちゃるといったようなことすらが、になりかねない。ね、ですから、何でもないことのようですけれども、そういうことに心を使わせて頂くということが信心だ、何事にも信心になれよと、かというて、一本ちゃんと筋金が通っておるというのですね。ここはよしたとえば、親であろうが目上の人であろうがです、かくと信ずるところは、それを私は貫かせて頂くという生き方、強情じゃない、我じゃない、ね、もうしばらく待っておって下さい、しばらく、見ておって下さいと、その相手を合掌して神様の方へ向けていくといったような心、ね、そこに、親に不幸して、神に孝行して、後に親に孝行しておるというおかげ、そこに神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜びじゃということになる。
商売をさせて頂いてもそう、ね、お客さんにも喜んでもらうといったような、いわば商売をするなら、神様も喜んで下さらないはずはない。けどもそこんとこには、自分が犠牲を払っておるから、今自分が喜べるということじゃないけれども、それが信用にならないはずはない。あっちはなかなか良い品物が安う売られるから、また買うならあそこで買おう、人にもいわば話してあげよう、宣伝してあげようということになる。
そこに結局は、やはり氏子も喜びというものがそこにあるわけなんです。
ね、久留米の石橋先生の生き方であられた、石橋先生はそういうようなひとつのご性格でもあったろうが、そういうことにやはり精進されたおかたじゃなかったじゃろうかと、ね、出すぎもせず、引っこみ過ぎもせず、石橋さんこそ真の人じゃとこう、情にも流されず、知にも走らず、それでいて、自分自身をいつも有り難いというふうに保っていけれる、ね、そういう信心をどうでもお互い工夫させて頂く、ね、してそこに取り組ませて頂く、ね、そういうおかげを頂きたい。それにはまず自分を知ること、自分はどうも冷たい性格だ、自分はどうも情が強すぎる、という、そこんところをです、いつもこう心の中に有難い勿体ないの調子を取っていく、そういういわゆるかん、かん、みんなが喜んで頂ける、自分も喜べれる、そういう私は真の人にならして頂くそういう精進、そういうけいこがね、やっぱり必要であると思うのです。どうぞ。